龍田古道を歩く


悠久の歴史や人々の心に
想いを馳せながら、
龍田古道を歩く。
龍田古道とは、古代において都のあった大和国(奈良)と
西国からの玄関口であった河内国(大阪)を結ぶ道であり、
『万葉集』の和歌では龍田道と記されています。
奈良と大阪の境は、南北に生駒山系と金剛山系によって
隔てられており、移動するためには山越えを必要としました。
そのような地理的な条件下で、生駒山系と金剛山系の間を
東西に流れる大和川(旧龍田川)は物資運搬の大動脈であり、
川に沿った道は標高差も少ない利便性の高い道であったことから、
聖徳太子や天武天皇、聖武天皇らによって整備が進められました。
特に奈良時代には、中国大陸に向かう港があった難波に宮が置かれ、
官道として平城京との間を天皇が移動する行幸(ぎょうこう)が
頻繁に行われました。
龍田古道を知る8つのポイントを
デジタル絵巻で解説
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1.頻繁に行われた天皇の行幸
龍田古道は頻繁に天皇が行幸した道ですが、奈良時代にはどのような規模感、人数で龍田古道を移動したと思いますか?
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2.龍田古道の風神信仰
今も残る龍田大社の風神信仰は、奈良時代になぜ国家的に祀られていたのでしょうか。
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3.和歌に詠まれた龍田川は大和川?
小倉百人一首で在原業平や能因法師の龍田川を詠んだ和歌が有名ですが、当時の龍田川は大和川かもしれません。
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4.龍田古道の心臓部「亀の瀬」
奈良時代において、龍田古道の難所で地すべりをおこす国境の亀の瀬は当時の人々にとってどのような場所だったと思いますか?
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5.天皇や歌人が愛した景観
龍田古道には、聖武天皇がその景観を愛して離宮を築いた場所や、多くの歌人が歌に詠んだ場所があるのです。
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6.多くの寺院が建てられた柏原市域
龍田古道で大和国に入る手前の柏原市域は、古代においてどのような人々が生活していたのでしょうか。
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7.時の天皇が巡拝した智識寺
智識寺の「智識」が意味する人々とは?そして彼らが祀っていた仏が、あの有名な大仏のモデルに!?
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8.古代ではとても重要な場所だった難波
龍田古道は、平城京と難波宮を結んでいました。その難波は当時、どのような役割を果たしていたのでしょうか。
龍田古道沿いには多くの古代寺院が
立ち並んでいたことから、
大陸からの使者を迎えるに相応しい大道としても
利用されていました。
日本遺産の構成文化財を巡り、当時の趣を感じながら
歩くのも、また深い面白さがあります。

龍田古道 亀の瀬 絵巻
平城京と難波宮が造られ、龍田古道が最も栄えた奈良時代をイメージして作られたデジタル絵巻です。
歌人 高橋虫麻呂の和歌や、発掘調査のデータを元に、当時の景色や建物を復元しています。
絵巻本編は柏原市立歴史資料館で公開されています。